遠藤秀文さん(株式会社ふたば代表取締役/一般社団法人とみおかワインドメーヌ代表理事)
地元・富岡町で父親の会社を継いだ遠藤さんは発災当時、津波によって完成間もない自宅を目の前で失った。被災後、生活と会社の再建に奮闘するなか、富岡を中心に複数の拠点を循環させる道を拓いていく。そうしてたどりついたのが、温暖な浜通りの気候を生かしたブドウ栽培とワイナリーづくりだ。無謀とも言われた挑戦は地元の人たちの理解と協力を得て、今、ふるさとに新しい風景を生み出そうとしている。
発災のとき━━家は、家族は、そして町は
発災時は勤め先の双葉測量設計の事務所にいました。当時父は富岡町長を務めていましたが、その父が興した会社です。津波で家を流されました。地元の山の木材で建てた家を、たった5ヵ月で失った。家族はそれぞれに危機的な状況を経験しながらも無事で、父は災害対策本部で陣頭指揮をとることになりました。避難が始まり、富岡の住民はまず川内村へ、そして郡山のビッグパレットふくしまに入ることになりますが、わたしたち家族は岐阜にある妻の実家へ避難しました。その間、父から会社の存続を託され、1日も早くお世話になった地元に戻って会社を再開する決意を固めました。
発災時にたまたま自宅の竣工検査のために来てくれていた建築家の芳賀沼整さんは、その日の混乱のなかをともに奔走してくれたのですが、福島に帰るにあたりまずは芳賀沼さんの好意で彼の家と仕事場のある南会津の針生に逗留させていただいた後、震災からちょうど1ヵ月後の4月11日に郡山に拠点を構え、一緒にやろうと言ってくれた社員たちと会社を再開。流されずに荒れたままになっていた富岡事務所からPCや測量機材などを取り出しました。他方で浜の拠点として5月に相馬にも事務所兼社宅を、さらに6月にいわきにも事務所を構えました。
会社が動き出すと、県・市町村の復旧・災害査定対応にかかわる仕事が入ったり、以前に勤めていた建設コンサルタント会社の日本工営との共同のかたちで国レベルの面的な調査や防災緑地計画のマニュアルづくりなどの仕事が増えていきました。さらに日本工営とのJVのかたちでバリ島の海岸保全に関するJICAのプロジェクトを受注したり、つづけてツバルやモーリシャスの海岸の仕事も受けるなど、仕事が急増して過酷な日々を送ることになります。色々な苦労がありましたが、幸い郡山はさまざまな地域からの人の出入りのハブですから、仕事のやりとりや社員の採用などにうまく機能しました。
始めてみてわかったことですが、性格の異なる拠点を複数かまえることがなかったらあのような仕事の仕方はできなかったでしょう。多拠点性の意味を感じながら、数年間は必死で会社をまわしていったわけです。

家族が戻り、富岡へ戻る━━循環型の拠点づくりを
教員免許をもっている妻は、避難先の岐阜で中学校の教師をして子どもたちと実家に暮らしていたのですが、妻の母が家族は一緒にいないといけないと背中を押してくれ、子どもが小学校に上がるタイミングだったこともあって、2012年度いっぱいで岐阜を去り、家族が福島に戻ってきました。竣工まもなく流されてしまった家を2014年に再建して、郡山に家族の拠点ができました。
地域にとって重要な画期になったのは言うまでもなく2017年春です。環境省の面的除染が一段落し、その年の4月には富岡町役場が帰還することになっていました。わたしもその前年くらいから富岡本社の再建・再開の構想を練り始めていました。富岡を本社とし、郡山を支社に位置づけなおすことにしたのですが、本社はやはり富岡の先祖から受け継いだ山の木を使おうと、縦ログ構法を採用してもらいました。富岡駅前の通りに面する立地ですから、その意味でもシンボリックな意味をもたせたかったのです。当初は混乱しましたが、富岡の再生に貢献したいという若者が入社してくれたり、国の各省庁や、企業、あるいは留学生など多くの人々が研修に来てくれるようになると、雰囲気はみるみる変わっていきました。富岡本社は地域開放会議室、研修センターのような意味も持つようになり、実際、隣に研修センターをつくることにしました。2021年2月完成の予定です。
複数の拠点を構えるなかで、やはり富岡に本社を構えるということの効果や意味が次第に大きくなってきたのです。
2019年には富岡の自宅も完成しました。横ログ構法の木造仮設住宅を解体移築して再利用したものです。この家のそばには、じつはわたしたちがつくりつつあるワインをつくるためのブドウ畑がひろがっていて、家は畑の作業をするときに仲間たちが集まる場所です。これは日本で一番海に近いワイン圃場だと思います。風景がすばらしくて、日本じゃないような錯覚に陥るような場所です。ここはもともと杉林で、その杉材を使って富岡と郡山の社屋ができました。伐採したところを開墾してブドウ畑にしましたから循環型です。仮設住宅の再利用も循環ですよね。仮設利用を進めたい福島県の建築の次長さんもご覧になって、「これは理想的な循環型です」と評価していただきました。さきにお話した研修センターも仮設住宅群の中で使われた集会場の再利用です。

原風景を結びつけ、新しい風景を
これから可能性があると考えているのはワイナリーです。これも仮設住宅を再利用して2階建てにできたらと思っています。また、じつは津波ですべてが流されたなかで、うちの蔵とケヤキの木が残りましたので、これらにも意味を持たせていきたいと考えています。ケヤキの木は河川改修で全部きられる予定だったのですが、まず国交省に先行事例を聞き、それを武器に県と協議して、なんとか10本近くを中洲にして残してもらえることになりました。
この蔵とケヤキのある駅東の土地にまでブドウ畑を広げていきたい。常磐線の駅や車窓から、一面ワイン畑の風景がひろがり、そのかたわらに津波に耐えた蔵があるようにしたい。ワイナリーをつくるにも、こういったつながり、結びつきのなかで、どこにつくるか、どんな意味や役割をもたせるかを考えなくてはいけないと思いはじめました。
そうして、消えずに残った原風景があたらしい風景の要素となっていく。外から来た方々は、往きは通過しても、帰りは寄ってみたくなるような景色。いずれ、ここに住んでみたいなと思うような景色。いろいろな移住政策があるでしょうが、やはり風景をつくっていくことが大事だと思うのです。

なぜワインなのか━━震災前からの夢をまちの風景に
ワインは、実は震災をきっかけに考え出したのではなくて、震災前から抱いていた構想です。
わたしが大学3年の時、高校時代の親友と居酒屋で朝まで語り合った時、35歳で故郷に戻ってくる、それまでは何でもやってみようと決めました。そして世界をみたいと思った。それで海外の仕事が多い建設コンサルタントを調べ、日本工営に入社したわけです。2年目から海外事業部に移り、アフリカ、アジア、中米など二十数ヵ国で仕事しましたが、どの国に行っても双葉郡富岡町をつねに意識していた。故郷に無いもの、持ち帰るものは何か。浜通りという地域は、気候はすごくよく、海・山・川のバランスがよい。住みやすい。桜の名所があって数十万人の花見客が訪れるのですがこれは一時期に限られる。そういうことを考え、「酒だな」と思いついたのです。立派な酒蔵は福島にたくさんありますが、海外でみた美しいワインのブドウ畑だって浜通りの暖かさならできるのではないか。稲は毎年刈りとられるのに対して、ぶどうの木は何代も引き継がれて風格が出ますよね。その個性あるブドウが個性あるワインになり、さまざまな土地の食材と関係を取り結び、たくさんの人の交流を生み出す。収穫の活動にかかわってもらうことだってできる。風景が人を呼び込む力をもつのは、物語の力があるからです。
震災の3年半前に富岡に帰り、株式会社ふたばに入ってからも、ブドウ畑をどこにつくるか、ずっと候補地を探していましたが、地元で土地を求めるのは難しかった。誰だって代々受け継いできた土地を手放したくはなく、お金にならなくても兼業で米をつくって土地を維持しています。そこに震災があり、住民が避難を強いられ、未利用の土地がたくさん出て、そこにこそ新しい物語が必要だという思いを強くしました。
最初は馬鹿にされましたよ。2016年春の無人の町で、しかもブドウ畑などなかった土地でワインづくりなんて、なんと無謀なことをと。しかし調べると海風の塩に強い品種もあり、今年はシャルドネ、ソービニョン・ブランなどの白の王道の品種もできるようになって、海の幸と合わせられる。釣りをして、ワインも味わう体験をつくれる。鮭の梁場が再開すれば、鮭は秋(9~11月)に遡上するのでワインの収穫のタイミングと重なり、ブドウの収穫祭とのコラボもできる。富岡は以前から畜産が盛んな土地で、震災前からプリマハム系の養豚場があったのですが、そこに通って物語を共有してもらうことができ、赤ワインの夢もひろがってきました。そうやってワインは地元の魅力とどんどん手を結べるわけです。
じつは、ソービニョン・ブランといえば最大の産地はニュージーランドです。そして、オークランドと富岡町は姉妹都市です。父も町長時代に何度かオークランドに行ったことがあり、「海を見ながらのワインとラムは美味しかった」と言っていました。ですからソービニョン・ブランを最初にやりたかった。南半球と北半球は繁忙期が重ならないので交流しやすい。震災で途絶えがちになっていた姉妹都市の交流が、もっと実質的なものになっていくとよいなと思っています。

試して学ぶということ
ワインのプロジェクトは完全に民間の自発的なものです。仲間はほとんどが富岡町民で、多くが経営者。たくさんの人たちの出資で成り立っている。出資ではなく助言というかたちで参加する大学の先生もいる。加えて、草むしりなどは東京などからホテル代を自分で出して作業に参加してくれる人がいる。親子連れもあれば、企業のCSR活動として50~60人きてくれる会社も。これはお金に代えられない価値だと思います。人と人との自発的なつながりの深さ。本当に勉強になります。コミュニティというのはこういうことで少しずつ形成されていくのかと。
やりながら学ぶ、試して学ぶ、ということが大事だなと感じています。机上ではなんでもつくれるし、なんでも描けますが、地に足をつけてやってみて、少しずつ変えながら、意味を持たせていくということです。
そういった経験を通じて、わたしたちの会社もより広く「社会コンサルタント」というべきものになりつつあるのだと感じます。社員にも、測量会社からはじまって、いまは建設コンサルタントだが、これからは社会コンサルタントを目指そうと言っています。父が興した会社は「双葉測量設計」でしたが、わたしが社長になるときに「株式会社ふたば」と改称しました。ひらがなを使うことで、変化を受け入れやすくなると考えたのですが、それがいよいよ意味をもってくる気がします。柔軟性や包容力をそなえることの重要性をこの10年で学びました。
(2020年12月18日 株式会社ふたば郡山支社にて収録)
