山田猛史さん(飯舘村・関根松塚地区)
飯舘村の関根松塚地区で畜産を営む山田猛史さん。2017年3月31日に長泥地区を除く19行政区が避難指示解除となった際に、いち早く村で営農を再開した一人だ。自宅のある福島市飯野町と往き来しながら、大規模畜産でブランド牛である飯舘牛の復活に意気込む。
震災当時の避難状況
山田家は代々飯舘村に住んでいる家系で、私で5代目となります。伝え聞くところによると、最初に飯舘村に移り住んだ祖先は新潟からの移住者で、父の代には満州に行っていたこともあるそうですが、私が生まれた後はずっと飯舘村で農業を営んできました。震災前は牧畜を中心に、稲作のほか、タバコ、ブロッコリーなども栽培し、多角経営を行ってきました。 震災発生当時、うちの牧場では29頭の牛を飼育していました。5月には全村避難が始まり、その翌月に臨時の市場が立てられ、私たちは若い牛と血統が良い牛を3頭だけ連れて避難することにしました。3頭だけ残したのは、畜産を辞めるつもりはなかったからです。避難先を探す中で、新たに血統が良い16頭を買い入れ、借りられる牛舎を探して各地を回りました。ちょうど私と同じように畜産を続けたいと言っていた知人に誘われ、西白河郡中島村で酪農をしていた方から50頭収容できる牛舎を共同で借りられることになりました。そうして私たち夫婦と母、姉、さらに別の避難先にいた息子の家族とともに、中島村でひとまず腰を落ち着けることができました。中島村は稲作が盛んな土地柄でコシヒカリが有名です。露地野菜の栽培も盛んに行われ、飯舘村よりも温暖ということもあり、こんな気候の土地なら農業もやりやすいだろうなあ、と避難した時に思ったものです。飯舘村は遅霜、早霜が多く、歴史的にも冷害に悩まされてきた土地でした。ある時期から畜産に切り替える家が多くなったのもそうした風土が影響しているのかもしれません。牛は寒さに強く、雪が降っても小屋を建てておけば、ちゃんと耐えてくれる生き物です。

関根松塚地区の情報紙「ユートピア17」
私は2010年から6年間、この関根松塚地区の区長を務めました。震災前はこの地区の集落に40戸の農家があり、そのうち畜産を行っていたのは7戸ほどですが、全村避難の際にほとんどの農家が牛を手放してしまいました。関根松塚地区は飯舘村の中でも比較的早く除染が進められた地域でした。しかし、地区の若い人たちの多くは避難先の川俣町や福島市に家を建て、避難解除後に戻ってきたのは多くが高齢者です。
それでも関根松塚地区の集落は、飯舘村の中でも昔からまとまりが強いと言われてきました。それは今も変わりません。象徴的なのが「ユートピア17」という地区独自の月刊紙(現在は隔月)です。この紙名は関根松塚が飯舘村の第17行政区にあたることが由来なのですが、A3判表裏2ページの新聞を25年以上発行し続けています。集落内の日々の出来事を綴ったささやかな新聞ですが、すでに通刊300号を超えました。休刊したのは震災直後のひと月だけ。翌月には2ページ増の増刊号を出しました。今も村外に暮らす住民にもれなく届くようになっています。
「仮仮置き場」のスムーズな合意形成
私も区長の任期中は常に震災に関する情報を伝えようとさまざまなメッセージを寄せてきました。例えば区長会議で汚染土の仮仮置き場(除染作業によって回収された放射性物質を中間貯蔵施設に移設するためのヤードの飯舘村独自の呼び名)のための土地の提供といった議題が浮上すると地区内での検討を呼びかけ、そのための共有地の活用方法や賠償金の配分方法などに対する考えを、紙面を通じて伝えてきました。
飯舘村の除染事業は仮仮置き場の場所が早く決まった集落から順に行われました。関根松塚地区では個人所有の田畑は残し、それまで放牧地(牧野)などに利用していた共有地を提供する方針を早々と固めました。そのため、除染も比較的早く着手されました。こうした合意形成がスムーズに運んだのも「ユートピア17」があったからです。集落で定期的に集まるときには、皆に前もって目を通しておいてもらい、それぞれの避難先で暮らす状況下でも集まってすぐに議論ができるようにしたのです。復興に向けた動きのなかでこの新聞が果たした役割は大きかったのではと思います。
世代を超えた共有地の利用
関根松塚の共有地は、私の父の代のころに集落の人たちが開墾してつくった土地です。この時、集落内では稲作、タバコ栽培、牧草地をやりたい人たちがグループに分かれ、皆で集落内の広い土地を共同利用するようになったのが始まりでした。その利用方法も、例えば、水はけの悪いところなら水田、急斜面は牧草地、平らなところはタバコ畑というように、土地の性格に応じて用途を割り当てていったそうです。集落内では組合を作り、この運用を続けてきました。仮仮置き場のための土地を提供してほしいとなったとき、関根松塚地区が提供したのがこの共有地でした。じつは東京電力の賠償金額は水田に比べ、放牧地は低く設定されています。私たちはこれを集落全員に均等配分できるようにしたことで、住民間でのトラブルは起こりませんでした。
関根松塚地区の牧畜
関根松塚地区が畜産に力を入れ始めたのは1960年代後半ごろでした。それまで馬産が主流だったところに機械化が進み、牛への切替えが起こりました。どこの家庭も1、2頭は飼育していたんじゃないかな。わが家ではまず5、6頭ほど飼い始めて少しずつ増やしていき、震災直前の29頭がピークとなりました。切り替えが始まった当時は集落内で牧草地が足りず、共用地に放牧できるのは1軒あたり2頭までと決められたりもしていました。飼料となっていたのは稲藁だけでなく、あぜ草やとうもろこしもあったと思います。とうもろこしは自家栽培で、コンクリート製のサイロに入れて足で踏み、土をかぶせて冬の間の飼料にしていました。サイロでの足踏みは「結」で行い、毎日、集落内の農家を順番に回っていく、そんな時代でした。
牧畜再開への決意
私は子どものころから牛が身近な存在だったこともあり、避難指示が解除されたら、いち早く村に戻って畜産を再開させようと決めていました。そのためにも、西白河郡中島村に3年ほど住んでいた間、片道2時間かけて自宅に通い、農地の除染を進めていました。その後、福島市飯野町に移住し、元養鶏場だった建物を牛舎に改築して牛を育て始めました。2017年3月31日に長泥地区を残して避難指示解除となりましたが、その前年の4月から私の農地を提供し、試験放牧を行ってきました。試験放牧では、水・土・草の線量検査を行って安全性を実証するほか、2ヵ月に一度、牛の血液検査も受けます。検査は現在も続いており、今は2〜3ヵ月に1回のペースになりました。牝牛を中心に約70頭を飼育しています。住まいのある飯野町の牛舎に1/3、自宅の敷地に新築した村内の牛舎に2/3の割合です。

牧畜を再開するときに問題だったのは牧草の確保です。既存の牧草地はいまだ線量が高く、飼料にはできない。そこで、今は米作に用いられていない地区内の休耕田をまとめて借り受け、これを改良し牧草地に転用させてもらうことにしました。もちろん時間も費用もかかりますが、試験放牧の期間に土地を整備し、費用面に関しては村の復興対策課による手厚い営農支援制度を活用できました。この支援事業は休耕中の田畑の維持管理や、段階的な営農再開のための各種補助金に加え、これまでにない新しい挑戦を後押ししてくれる補助制度がありました。私はその「福島再生加速化交付金(被災地域農業復興総合支援事業)」に採択され、現在、牧草地や牛舎の整備を行いながら大規模畜産に挑戦しています。

飯舘牛ブランドの復活を目指して
私は震災後、牛の繁殖に集中しようと決めました。というのも、震災から10年を間近に控えた今もなお、農作物の風評被害が根強く残っている現状があるからです。和牛はホルスタインなどよりも品質が高く、Aランクのものばかりです。とくに飯舘牛は豊かな自然に育まれた上等なブランド牛として、震災前は高い評価を受けていました。しかし、検査によって安全性が証明された今も、原発事故の影響で消費者に敬遠され、仲買人の買い控えが起こ流という、厳しい状況が続いています。かつてはブランド牛として親しまれたにもかかわらず、スーパーに並ぶときには「福島牛」ではなく「国産牛」というラベルが貼られるのです。このあおりを受け、肥育農家の数もかなり減ってしまいました。
こうした状況だからこそ、私は「飯舘牛」のブランド化に力を入れなければ、と考えています。震災前は飯舘村育ちなら仔牛の出生地はどこでもよいとされていました。状況が大きく変わったことで、今は飯舘村生まれ、飯舘村育ちの牛を育て、飯舘牛として売り出していきたいと考えるようになりました。霜降りが多く品質の良いA4ランク、A5ランクの純粋な飯舘産牛を育て、繁殖農家と肥育農家が協業できるまでにブランドを復活させるのが目標です。そのためにもまずは100頭まで増やそうと、毎日牛たちに目を配り続けています。
(2019年12月15日収録)
